環八陸橋ボルトの 「蓋」
常につまりにつまっている環状8号線。
誰しもが、なにか攻略方法はないのかと模索するが避けられない。
息を小さく吐き出して、視界に広がる赤ランプと綺麗に列を成した車の数をみると途方に暮れたくもなる。
あぁ、ながい、つまらない。そう思わず言葉を発してしまうのだ。
きっと人間というのは、手持ち無沙汰になるとふと色々と考えたりする生き物で、考えすぎて不意に田んぼにだって落ちてしまうし(これは私)電車も乗り過ごしてしまう (これは友達) 。
挙げ句の果て、なんだか時間を持て余してしまって「勿体ない」なんてネガティブな気持ちになったりもする。
渋滞はたまにそんな退屈な時間をもたらしたりする。
自分を見つめ直すそんな時間にもなったりもする、らしいのだけど。
思いに耽ったそんな時に、視界に入った光景に笑ってしまった。
よく見ると陸橋のボルトにボトル缶の蓋がはまっていたのだ。しかもぴったり。
こんなに上手にはまるのは、運命なのではないだろうか。
あるべきものがそこにあるような、まるで必然の話をしているみたいだ。
誰かの退屈がそこには存在していて、私はその痕跡に気がついてしまったのだ。
しかも一つだけではなく、数箇所に何個もはまっている。私と同様にこの痕跡に気づいた誰かが同じことをしたのだ。
まるで時間の共有で、この退屈を共にしている証みたいだった。
歴史を重ねてその景色は生まれ、 また別の人へと伝わっていく。
名の付けられた作品でなくても、生きている風景の中に様々な感性が存在して次々に生まれている。
その姿をこんなところで見るだなんて。何者かにならなければ」 「今世になにかを残さなければ」と葛藤しているが、我々は気が付かない間に大地に足跡をつけている。
気がついて。
探してみて。
私たちが気が付かないところで、面白いは始まっていく。
文/小林愛